大化の改新と天皇中心の国づくり

こんにちは

 

今日は、第13回歴史教室での、大化の改新と天皇中心の国づくりのご報告をします

 

この間12回目は、天皇中心の国つくりをした、聖徳太子がお亡くなりになったところで終わりました。

今回は、その後のお話しです。

 

どうなったのでしょう。。

 

 

 

 

 

 

蘇我一族は、聖徳太子がお亡くなりの後、どんどん権力を握っていき、人々が、聖徳太子の息子の山背大兄王に天皇になってもらい、聖徳太子の国づくりを引き継いでほしいと願いはじめたことに危機感を抱き、蘇我馬子の孫、蘇我入鹿は山背大兄王を襲ったのです。

 

山背大兄王の家来たちは、「東に逃げていけば必ず見方がいるので、蘇我氏に勝つことができます」と説得したのに、

 

「私がもし、兵をひきいて戦えばまた多くの国民の命を奪うことになる。私一人が死んで国がまとまるなら、それも男子の道といえるのではないか?」

 

といって、斑鳩にもどり家族とともに自殺したんです。

 

ここで、聖徳太子の一族は滅亡します。

 

 

きいいー

 

なんで戦わないの??????

 

って思いますよねえええ。 😯

 

わたしなんて、獰猛ですから、 😈

 

おっりゃーーかかってこいやーー

相手してやるで――

 

といいたくなりますが、、

 

さすが、、品のあるかたは違うのかもしれません。。 💡

それに、たぶん、小さいころから権力争いをみてきてですね、舒明天皇に決まる前も、いろいろとあったそうですから私のようなものには計り知れないお考えがあったのでしょうね。(山背大兄王が天皇になってもおかしくなかったけれど、蘇我氏に説得させられて辞退し、仏教の勉強にいっそう勤しんだそうですよ。)

 

 

さて、、ここからが斎藤先生の質問です。今日の質問1.

 

 

 

 

さて、、みなさんは、どちらを選びますか?

 

歴史教室でも、いろいろと意見が分かれました。

 

また、同じ意見だとしても、同じ理由ではないところが面白いですね。

 

1の主な理由は、「実力者がなるなら、反乱はおきない、みんな納得するから」

2の主な意見は、 「聖徳太子が決めたことは守りたいし、その時々、権力者が変わっていたら国がまとまらないから」

 

というものでした。

 

この質問にも、よい、悪い、正解、不正解はありません。

 

自分たちが、その当時の人たちの立場に立って考えることがとても大切だからです。

 

わたし自身の意見としては、、

 

当時の人たちの一員になってみれば、

 

「いいんじゃないの?実力のある人がなればーー。」

 

と思っていたと思います。

 

でも、、今の日本のありかた、天皇制の在り方をみると、「天皇中心の日本でよかったーー」とおもい、先見の明のある聖徳太子に感謝感激です。

だから、歴史を学ぶということは、今現在生きているこの世の中で自分がすることになるたくさんの選択の助けにもなるんですね、、。

 

さて、、

じゃん。。ここで、登場するのが、中大兄皇子と、中臣鎌足です。

 

中大兄皇子は、父は舒明天皇、母は皇極天皇で賢く決断力のある若者でした。彼は蘇我氏のやり方には反対で、聖徳太子の国つくりを発展させていきたいと考えていました。そして中臣鎌足は、日本の神々を祭ることを国の仕事として勤めてきた家柄で、やはり蘇我氏のやり方には反対でした。

2人とも、蘇我入鹿が「天皇中心に国がまとまる」といった聖徳太子の大方針を乱して、国を自分のものにしようと考えていると思っていました。

 

二人はどこで会ったかというと、、現在でいえば、サッカー場ですね。(あれ?)

蹴鞠の会で会いました。 😎

 

 

そして、同じ気持ちでいた2人は意気投合し、蘇我入鹿を倒すことを話し合い、計画を立てたのです。

 

そして、時は645年の6月12日。。

 

とうとう蘇我入鹿を倒すチャンスがやってきました。

その日は、朝鮮の三国(百済、新羅、高句麗)から使節が来ていました。皇極天皇が大極殿に出御し,入鹿も入朝していました。皇極天皇の前で石川麻呂が上表文を読み上げているときに、入鹿を切りつけるはずだったものたちが恐れ入って何もできないでいたと見た、中大兄皇子が入鹿を切り付け、他の者たちとともに、入鹿を殺害したのです。

 

皇極天皇は、「何事か?」といいましたが、中大兄皇子は、

 

「入鹿が、天皇をほろぼし、自分が天皇の位を狙っていたのです。」というと、

 

皇極天皇は直ちに殿中へ退いたのです。

 

これを、

 

「乙巳の変」といいます。

 

蘇我蝦夷(蘇我入鹿の父)は「お前は(入鹿)やりすぎたのだ。だから恨みを買ったのだ。」といって屋敷に火を放ち死にました。

 

その時に、聖徳太子の書いた「国記」と「天皇記」も一緒に焼けてしまったのです。

うぬぬぬーもったいないーーーーーー。

 

 

そのあと中大兄の王子が、飛鳥寺に朝廷の役人を集めて、

 

「天と地の間には、君主は一人しかいない。これからは、一人の天皇を中心にして、臣たるものは従わなければならない。」

 

といい、初めて元号「大化」を定めて、この645年を大化元年と決めました。こうして新たに、聖徳太子の方針を受け継ぐ、国作りが始まったのです。

 

これを

 

「大化の改新」(646年)

 

といいます。

 

大化の改新に参加した遣隋使、遣唐使の留学生は、ちょうと、隋がほろび国がめちゃめちゃになり、まったく新しい唐という新しい王朝ができたところを見てきたのです。力の強いものが政権を取るたびに国が滅びてなにもかも新しく制度が変わり、国が始めから始まるのをみてきたからでしょう、留学生たちは、隋や、唐の律令制度を学びましたが、「天皇を中心に一つにまとまる国」にするべき、力を合わせたのですね。

 

そして、下記のような制度が作られました。

 

1.豪族の私有地、私有民をやめてすべて国のものにする。(公地公民)

2.国、群などの境を定めて朝廷の役人を派遣する。(全国で同じ政治を進める=中央集権)

3.初めて戸籍をつくり班田班授法を定める。(税の仕組みを作る。)

663年、防人の制度を定める。(国を守る軍隊を作る。)

 

 

わたしは、、、すごいなーーって思うのです。

 

なにがすごいかって??

 

だって、646年といえば、、

イギリスと比べればですけど、イギリスはまだ国がばらばらで、七王国時代と呼ばれる時代の時なんですよ。

たしかに、いろいろな面で状況が違いますから、比べることはできないとは思いますが、

(張り切って比べてみると、 :mrgreen:

当時のイギリスは、王というより、藩主がいるっていう感じですよね。

 

 

だから、この時代に「天皇を中心にしよう」という人たちがいたということ、そして、多くの人がしたがったということが

 

 

「ミラクル―――――」

 

っておもうのですよ。

 

 

また、塩野七生さんの本とか読んでいると、ヨーロッパ内や対イスラム国との戦い(この時代の)

 

ほんとーーーに、ひどいですからね。。争い方が。。

 

中国の王朝の移り変わりとまるっきり同じではないかと思うんです。ローマ法王はいましたけど、ローマ法王の下でまとまっていたといえるのでしょうかね?イスラムの国からの海賊退治も、他人事で、身分の高い人が誘拐された時だけしか助けに行かず、軍隊もださなかったのが、何100年どころか、何世紀にもわたって海賊に困らせられていた話を読むと、領主も王もローマ法王も自分たちのことしか考えていなかったのが一目瞭然です。

(と、私は思ったんです。)

 

ということで、646年にこれだけのことができていて、それだけではなくて、

今も続いているということは、自慢していいことだと思います。

お国自慢しましょう!! 😀

 

 

 

 

さあて、、斎藤先生からの今日最後の質問です。

 

 

さて、、何番目でしょうか???

 

ちなみに、今の今上天皇は、神武天皇から数えて125代目の天皇陛下です。

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

 

247

 

なんです!!

 

 

ひいーーもっと少ないと思っていました。

 

 

なぜなら、、、いまは一人の天皇に一つの年号ですが、むかしは一同じ天皇の時代でも、何か災害があったりのおおきなことがあると、年号が変わっていたからなのだそうです。

 

 

へえー一そうなんですね。

 

 

さてさて、、これで、第13回の授業報告は終わります。

 

小学校、中学校と聖徳太子のことを学び、大化の改新などをするーーっと習いましたが、

「ふうーーん」

という感じでこれが、どれほどの偉業か全然理解できていませんでした。今、いろいろな資料が出てきて、聖徳太子はいなかった、、とか、蘇我入鹿は本当はーーだった。など、いろいろな話が出てきています。それが本当なのかもしれないし、どうなのか、今の時点では私にはわかりません。

でも、一つだけ確実なことを言えるのは、日本がかなり昔から、

 

「天皇中心」の国で、まとまろうとしていたということです。

 

そして、それに多くの人たちが賛成していたということも興味深いと思うのです。まあ、本当のところは賛成していたのかわかりませんが、他の国のようにあちこちで反乱があったことはないようですよね。

 

イギリスも島国だけれども、大昔から大陸からの侵略者が多く、今の王朝とつながりがあるような統一をしたのは、1066年のウィリアム1世の時代まで待たなければなりません。そのあとも、ひどい争いがたくさんありましたし、ウィリアム王を頂点に国がまとまろう、、と思っていた人たちの方が少なかったのではないかとも思います。(ウィリアム王は当時フランスに住んでいましたし。。。)

そういった意味で日本は、大陸からの侵略者も、ラッキーなことに鎌倉時代の元寇までなかったですし、ゆっくりと自分たちの文化や国つくりができたのではないかと思います。

 

これは、、大ラッキーとしか言えません。

 

また、日本はイギリスと違って、地震や自然災害の多い国ですので、もしかしたら、もしかしたら、、そういった意味でも、一致団結しないと生きていけない土壌があったからかもしれませんね。

自然災害は、いくら強固なお城を作っても、いくらお金があっても、いくら家来がたくさんいて戦いが強くても、逃れられませんからね。。

 

色々な要素が絡み合って、今の日本ができてきたことを新たに学ぶことは、本当に楽しいです。

 

第14回の報告をお楽しみにしていてくださいね!!

 

 

 

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それではまたーー

 

 

 

 

 

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