後醍醐天皇と南北朝時代、楠木正成の忠誠と七生報國、第24回歴史教室


 

こんにちは。

 

大変お待たせいたしました!!

第24回歴史教室のまとめをするのにとても時間がかかってしまいました――なぜなら、、

あまりにも濃い内容だったからですよーではいきます。。

 

第24回歴史授業は、後醍醐天皇と、南北朝時代のお話でした。

 

⇧の写真は後醍醐天皇ですが、私の時代では、後醍醐天皇というと、天皇というよりは、

「ゴダイゴ」を思い出す人の方が多いのではないでしょうかね。

 

 

たぶん、、昭和生まれの私の時代の人くらいですかね。。

 

さあ、では今日は、この「ゴダイゴ」の曲をバックグラウンドに読んでください。 😛

 

まず、2つ前の授業、第22回のおさらいをしてみましょう。

鎌倉幕府の時代に、日本は大きな危険に侵されました。さあ、それは何だったでしょう。。

 

「元寇」

でしたね。

 

そして、その時に命を懸けて、日本を守り抜いた人びとの頂点であった将軍は誰でしたでしょうか??

 

「北条時宗」

 

です。このことは、日本人としての教養としておぼえておきましょう。

(なぜかは、第22回の授業報告「元寇の時、北条時宗は最初に何をしたか?どうやって日本を守ったのか?第22回歴史授業北条時宗と元寇」を読んでください。)

 

ということから始まりました。

 

そして、、

元寇から約40年あまりたったころ、最初の写真の「後醍醐天皇」が即位したんです。

 

その前に、見せなくてはならない系図があります。下の系図をみてください。

 

 

上の系図を見てわかるとおりに、後醍醐天皇が即位するころには、天皇家は早く言えば2グループ(大覚寺統)と(持明院統)に分かれていて、

交互に歴代の天皇を出しています。

なぜかといえばですね、、、承久の乱を覚えていますか?源家が途絶えた後に北条氏が権力を握った時に、後鳥羽上皇が幕府打倒の反乱を起こしたあの乱ですよ。後鳥羽上皇が、2人の息子たち、土御門上皇・順徳上皇といっしょに乱をおこし結局失敗して島流しにあいます。

 

後鳥羽上皇と順徳天皇はやる気満々で、特に順徳上皇は天皇の位をまだ小さい自分の子供に押し付けて、勇ましく戦いに行ったそうです。。すごいですね。。土御門上皇は、自分はやるきはなかったのですが、父親と弟にけしかけられてしかたなく、天皇側についたわけなので、しばらくたつと後に幕府の温情により、より都に近い讃岐に配流先を変えられたそうです。

 

承久の乱のあとは、天皇になる人も少なくなり、(そりゃそうですね。上皇たちが乱をおこしたのですから)けっきょく、しばらくたつと、土御門上皇の息子の後嵯峨天皇に回ってきたわけです。。

 

ああ、長い話でした。

 

でも、これでわかりますね。

 

今日の主役、後醍醐天皇は、後嵯峨天皇の「ひい孫」なんですわ。

後嵯峨天皇は後鳥羽上皇の孫ですから、

後醍醐天皇は、後鳥羽上皇の、ひい、ひい、ひい孫になりますね。はあー。

 

ということで、後醍醐天皇は、幕府には向かった変わり者の天皇のようにいわれていますが、結構、

根が深いんですね。。。朝廷(天皇)対 幕府 って。。

 

亀山天皇は、元寇があった時の天皇で、兄の後深草天皇が後嵯峨上皇の要請で、17歳で譲位したために天皇になりました。後醍醐天皇は、この亀山上皇(自分の息子で後醍醐天皇にとっては父の宇多田天皇に譲位したために上皇になった)の孫にあたります。

 

亀山天皇の兄の後深草天皇が譲位したのも、もとはといえば、父の後嵯峨天皇が、聡明ではきはきしていた?亀山上皇を気に入っていたからと言われ、ここから亀裂が始まるんですよ。そして、譲位した後深草天皇は、それでも、亀山上皇の後は、自分の子供が天皇になれると思っていたのですが、父の優柔不断の後嵯峨天皇が、後継者を曖昧のまま死んでしまい、結局、亀山上皇の息子が天皇になるのです。

 

それ以来、⇧の表を見てもらえばわかりますが、代々天皇は両家から交代で出すことになります。こういったことも、幕府に次の天皇の決定権を握られてきて、後醍醐天皇もうっぷんがたまってきていたのでしょうね。

 

そこで、幕府に不満を持つ武士たちを集めて幕府を倒そうとするのですが、計画がばれてしまうのです。そしてびっくりすることに最初の計画の時には、後醍醐天皇も何事もなかったかのようにふるまい、おとがめもなかったのです。

でも、、さすがに2回目の計画がばれたときには、逃げて捕らえられてしまうのです。

 

 

幕府は、後醍醐をどうしたでしょうか??

 

死刑にしたのでしょうか??

 

いえいえ、島流しにはあいましたが、命は助かりました。やはり、いくら幕府といえども、天皇を死刑にすることは恐れ多かったのでしょうか。太平記には、「家臣(幕府)が天皇陛下を島流しにするなどという不思議な話は聞いたことがない。」と書いています。

 

 

まあ、それでも、後醍醐天皇は、密かに壱岐を抜け出して、作戦の練り直して再び幕府に戦いを挑みます。すごい根性ですね。まあ、ここまでの後醍醐天皇の行動は、なんとなく応援したくもなるのですよ。後醍醐天皇側についた武士たちも自分達の不満、つまり、元寇の後も続けられた警備への負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞や、北条一族の知行国の増加で彼らだけが利益をこうむっている不満。。などを蹴散らしてくれそうだったのが、ブイブイ言わせて頑張っている後醍醐天皇だったのでしょう。

 

だからこそ、足利尊氏、新田義貞、楠木正成などの武将が後醍醐天皇側について幕府を倒そうと一緒に頑張るのです。

 

ところで、、こんな漫画見つけました。ゴルゴ13(また読みたい)のさいとうたかをさんの漫画!!すごい!!

 

 

そして、↓!!漫画日本の古典全集!!きいいーー読みたい――漫画――

 

 

 

 

さあ、漫画の読めない人はここで勉強してください。 :mrgreen:

 

 

楠木正成の「千早城」での戦いは有名で、

1331年の戦いで奪われた赤坂城を1332年に、兵糧米運搬人に変装した兵を入れて内からと外からの攻撃で赤坂城を取り戻しました。そして、千早城との間に大城塞を築くのです。

 

 

千早城内では、「藁人形」も作っていました。⇧

 

楠木正成は、千早城の周りが絶壁で敵が容易に上がってこれないことを利用し、あらゆる奇策をめぐらして敵を翻弄しました。場外をよじ登る敵には大木や大石を落としたり、(糞尿も落としたそうですよ)藁人形を作って生きている人に見せかけて翻弄しました。

 

千早城に立てこもって6か月!!

 

後醍醐天皇は隠岐に島流しにされていたし、日本中だれも朝廷側に立って戦う人はいなかった時に、正成の粘り強さに、だんだん幕府の威信が落ちてきました。そして、徐々に官軍に味方する人たちが現れてきたのです。その間に後醍醐天皇は隠岐から脱出し、北条氏に反旗を翻した足利尊氏や新田義貞が鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府は滅亡しました。

 

元弘三年、1333年六月に、後醍醐天皇は隠岐より京都に還幸なされました。このとき正成は天皇の護衛という最高の名誉を与えられました。

 

これを、

「建武の新政」といいます。

 

 

さて、、鳴り物入りではじまった、「建武の新政」でしたが、どのくらい続いたと思いますか?

 

知っている人も多いと思いますが、なんとたった3年だったのです。

 

なぜだったのでしょうか。。

 

1.復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指したようです。自分の退位とともに、光厳天皇の即位および在位を否定して、けっきょく、自分の皇子恒良親王を皇太子に立て自らの子孫に皇族を継続させてようとしたり、

2.性急な改革、恩賞の不公平、後醍醐天皇に近い人が出世するようになったり、

3.土地所有権の再確認(後醍醐天皇が所有権を決める)ということで、自分のものだと思っていた土地が自分の土地ではないことになったり、とても不安定な状態になり、

 

「一所懸命」という言葉を覚えていますか?幕府と武士の間には「御恩と奉公」の関係で、武士たちは戦で働く代わりに所領を保障されていたのです。)

 

4.⇧上記の様子で、政策が思うように進まず、武士や民衆だけでなく、貴族からも不満が出てくる。

 

けっきょく、 元の天皇を長とする日本にもどすといいながら、自分の権力をほしいままにして、政治を進めていては誰もついてこないですよね。それは本当の天皇制ではないですから。

それで、武士の多くは失望しだしそんな時に新しいリーダーが求められてきたのです。

 

足利尊氏です。




ここで、斎藤先生からの質問です。

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皆さんが、武士のリーダーだったらどうしますか?

 

A.最後まで、後醍醐天皇を守って戦う。

 

B。後醍醐天皇を裏切り、武士の利益のために戦う。

 

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A の考えが、楠木正成と、新田義貞で、Bの考えが、足利尊氏でした。

 

足利尊氏は、裏切り者扱いされていますが、(最初は鎌倉幕府の北条氏を裏切り、そのあとは後醍醐天皇を裏切るので)、彼の立場になってみれば「なるほどね。。そりゃあ、そうなるわ」と思う記述もあります。

 

「北条孝時の遺児時高が鎌倉を攻撃した時に、尊氏は勝手に攻めに行って時高を討った後に、そのまま鎌倉に居座って朝廷に反旗を翻した」

というような話があるかと思えば、

 

「尊氏が鎌倉に出て行ったのは、尊氏のかわいがっていた弟が鎌倉を守っていたときに時高が攻め入ったので、尊氏は後醍醐天皇に、自分が征夷大将軍になって鎌倉にいって戦いたいと申し出たのにもかかわらず、後醍醐天皇に許されなかったので、許しを得ないままそのまま鎌倉に行って、鎌倉を取り返して居座り、武士たちに勝手に恩賞を与えたのが後醍醐天皇のお怒りを買った」

という話もあります。

 

私は歴史家ではないのでどちらの説があっているのかわかりませんが、人の目線によって勇者になったり、悪者になったりするということは知っておいた方がいいですね。

 

ただ、、後醍醐天皇が、しっかりと武士の身分や土地も保証して、新しい改革をやっていれば、尊氏も後醍醐天皇には向かおうとしなかったでしょうし、なによりも多くの武士が尊氏についていかなかったでしょう。楠木正成は、そういったことがわかっていて足利尊氏が九州に逃げた時点で、後醍醐天皇に「和睦するべき」と奏上しています。

 

さて、足利尊氏は九州に逃げた後、このままでは朝廷には向かう「逆賊になってしまう」とおもい、

後醍醐天皇が隠岐にいる間に天皇であった、「光厳天皇」を復活させます。

 

 

そこで始まったのが、、、

 

南朝時代なんです。

 

 

 

 

 

後醍醐天皇は、楠木正成に足利尊氏をたおせと命令します。

 

ここで、⇧のビデオを見ていただいた方はわかると思いますが、湊川の戦いで圧倒的な量の兵で戦いを挑む尊氏軍にくらべ、正成はたった700の兵で戦い最後は弟と刺し違えて全滅しました。

その時の言葉が、

 

「七生報国 (7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい)」

 

でした。

 

これがきっかけで、楠木正成は戦死を覚悟で大義の為に戦い「忠臣をつくす」代名詞になるのです。(江戸時代の中期ごろから)

 

↓皇居外苑にある楠木正成の銅像

A bronze statue of Masashige Kusunoki, one of the emperor’s loyal generals, watches over the Imperial Palace.

 

後醍醐天皇は、(はっきり言ってずうずうしく)、吉野(奈良県)に逃げて、皇居、朝廷を作ったのです。これが、南朝になるのです。

ということで、この時代、不思議な時代、、つまり天皇陛下が2人いる時代を、

 

南北朝時代

 

といいます。

 

 

 

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余談(50女の独り言。。)

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私が、後醍醐天皇のことをよく思えないのは、このブログの最後の絵の変なかんむりかぶってぬけぬけとしているから、、というのもあるけど、なんといったって、人を使って戦いを起こしておいて、人に戦わせて(しかも、その人物(楠木正成)の命がけの奏上もきかず。。)そのあとに、戦いが負けたら懺悔して出家すればいいのに、のうのうと「逃げて」

いすわっているのが、嫌なんですわ。改革起こすとか、天皇親政とか言っておきながら、「勇気があって素敵」と思えないのですよね。男らしいようで、男らしくないでしょ。

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余談終わり。。

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さて、、

 

この不思議な南北朝時代が、50年も続きます!!

ひいいいー

 

足利尊氏も、皇室を尊敬する気持ちはとても厚く、

 

「今は対立してしまったが、後醍醐天皇なくして室町幕府もなかった。後醍醐天皇は大恩人だ」

といい、後醍醐天皇が崩御されたときには、慰霊のために天龍寺を作ったそうです。尊氏は、南朝を滅ぼすことは考えなかったのです。

 

すごいですね。。私とは大違い。。懐が大きいのでしょうね。。

 

もしかしたら、わたしが知らない後醍醐天皇の魅力というものがあったのかもしれません。 🙄

 

 

 

さて、、南北朝時代ですが、室町幕府の三代将軍足利義満によって元に戻りました。

南朝の後亀山天皇から、後小松の時に統一され、これから天皇が一人になりました。

 

私が小学校時代かな?なんだか、今の天皇は本当の天皇ではないだの、もう一つ天皇の家系があるだの、UFOの話題のように取り上げられたことがあり、???と思っていましたが、これでやっと訳が分かりました。

 

明治政府が、南朝を正当と定めたので、今は南朝を正しい系統としているそうです。(だから楠木正成の銅像が立っているのですね。)

そして、

 

「明治政府が認めたから、今の天皇は北朝だから、本物じゃないーー」

とさわぐひとたちがいました。。

 

が、

 

けっきょく、、、おなじだとおもいます。

 

だって、南朝も、北朝もさかのぼれば、後嵯峨天皇からで、優柔不断の後嵯峨天皇が、後深草天皇を無理やり譲位させて、後深草天皇の弟の恒仁親王を亀山天皇と即位させてしまったのが始まりなんです。

後深草天皇の系統が北朝になっていき、亀山天皇の系統が南朝になるのです。

 

となると、正当な後継者って、実は北朝の後深草天皇の系統じゃないのかな??だから、今の天皇陛下の家系が正当な家系でいいのではないかと思います。

 

こう考えると、あのUFOの話題のように大ニュースになった皇室の系統のお話が、しゅーーーーん。と線香花火のように消えていったわけもわかります。

 

学校では、(私が忘れただけかもしれませんが、)南北朝の話はあまりしなかったような気がするし、ましてや楠木正成の話も聞いた覚えがないので、こういったことは日本人の教養として覚えておいた方が絶対にいいです。

英語が話せて外国人に皇居を案内する時も、楠木正成の銅像を見て、「あれはなに?だれ?」と聞かれたときに答えられないのも世にいう国際人として失格ですしね。 🙄 (うっぷす。。私も失格です。英語じゃ説明できないかも。。。)

 

 

さて、、第24回の授業報告はこれでおしまいです。

 

私にとっては、理解不明だった南北朝時代と、子供のころの、「今の天皇陛下は偽の天皇陛下だ」噂話の謎もやっとわかった授業でした。楠木正成や足利尊氏についてもよく理解できたと思います。新田義貞についてはあまりよく調べませんでしたが、同じ天皇側について足利尊氏と戦ったのに、楠木正成だけが「忠臣」とされているのには、たぶんですが、新田義貞が皇室を大事にするために戦ったというよりも、ライバルの足利尊氏に勝って自分が実権を握りたい。。という心がちらりほらりと見え隠れしていたからかも知れません。

実際、足利尊氏は、楠木正成の死は丁重に扱い、敬意を示していますが、新田義貞にはそういったことをしていません。まあ、それも、新田義貞側の話を読めばまたいろいろなよいエピソードがでてくるのでしょうね。

 

それでは、次回第25回歴史教室の報告を楽しみにしていてくださいね。

 

 

 

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