源義経と源平の戦い 斎藤武夫先生歴史授業第20回


こんにちは

 

第20回授業は、前回の続き(武士の登場と平清盛)で、武士が貴族に変わって政治の実権を握るようになったのですが、権力を握った平清盛がおごり高ぶり平氏一族が源頼朝、義経兄弟によって滅ぼされ、そのあとに頼朝によって義経が追討されて、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれるところまでを勉強しました。

 

ところで、、⇧の紅白の旗。。

運動会では必ず出てきますよねー。

わたしは運動会と言えば、紅白で、紅組か白組とわかれるのが当たり前だと思っていましたが、私の子どもの学校(ウェールズですけど)の運動会では、赤と白だけでわかれていませんね。青とかきいろとか、緑とかもっとたくさんの色でわかれていますわ。まあ、今時の日本の小学校もそうかもしれませんが、、。

あと、紅白といえば、紅白歌合戦ですね。年末にやるほとんどの日本人が一度は見たことのあるあのテレビ番組ですね。

 

さて、この紅白はどこから来たのか知っていますか?

なんで、黄青、、とか、緑黒とか、じゃないんでしょうね。

 

 

実は、、(といっても知っている人も多いと思いますが)

 

源平の戦いで使った旗、白旗が源氏、紅旗が平家の旗だったのです。

平安時代まで朝廷の象徴の御旗は、赤地に金の日輪で、官軍を名乗る平氏が御旗の色である赤を使用したので、源氏は白を使ったのですね。日章旗もこのようなことからの由来だともいわれています。

斎藤先生曰く、今は紅旗が共産党、白旗が降伏のしるしの旗になってしまい、とても残念だとおっしゃっていました。。同感です。 😥 )

 

余談1.(ここで関係ないですけどね、、イングランドは白で、ウェールズは赤が象徴的な色なんですよ。こちらも面白い伝説(ブリタニア列王伝)があって、いけにえになりそうだったマーリン(少年時代の魔法使いマーリン(アーサー王伝説に出てくる))がブリテン王に、何回建てても崩れ落ちてしまう建物の下には「大きな石がありその下には赤と白のドラゴンが眠っている」といって、大きな石を動かすと本当に眠っていた赤いドラゴンと白いドラゴンが出てきて戦い始める。。という話です。この中で赤はブリテン(ウェールズ人)、白はサクソン(アングロサクソン人)の象徴と言われています。)

 

イギリスと日本、どちらの国も小さな島国と言われて封建制度があって、君主制の国どうしで「赤」と「白」が重要な色として使われているというのも、おもしろいですね。

 

 

ということで、今日は義経と源平の戦いの話についておさらいをしますーー。

 

1159年 平治の乱 が起こりました。そして、その後20年間平清盛の時代が続きます。(たった20年間だったのですね)。

1180年源頼朝が関東の武士団をまとめて立ち上がります。その時に、弟の義経が駆け付け再会する。このとき頼朝33歳、義経20歳(22歳くらいだと思うのだけど。。平治の乱があった時には2歳だったらしいので)。これも、よくよく考えれば、再会したといっても、母違いの兄弟でほとんどあったこともなかったのだから、兄弟といえども他人のような感じだったのかもしれませんね。のちに頼朝が実の弟の義経を追いやったといっても、何の感情もなかったのかもしれないと思えてきます。

 

さて、、義経。。(月岡芳年の絵、、いいですねええ)

 

 

 

 

といえば、弁慶。。

 

鞍馬寺で、天狗から武芸の訓練を受けて、少年時代五条橋の上で弁慶をやり込めて以来、弁慶は義経の家来として仕えることとなります。

 

下は義経の絵で私が好きなもの。。

 

牛若丸と弁慶の出会いのお話は知っておきたいですね。

では、動画でみてください。

 

ひゅうーーーーーー

 

そして、この歌!!

 

斎藤先生が授業中に歌ってくれました!!!! 😀

 

 

こういった、歌や、物語は昔はだれでもしっていたのですが、最近の子供さんたちは知っているのかなあ。牛若丸くらいはしっているかもしれませんが、(テレビでもやっていましたしね)やっぱりーー覚えておきたいですよね。(でも、わたしも牛若丸の歌は斎藤先生が歌ってくださるまで知りませんでした。 🙂 

 

 

さあ、鞍馬天狗に訓練され(?)強い強い義経が、兄頼朝に平家打倒の大将に任命され大活躍したのが、源平の合戦です。

 

すごい。。こんなに戦っていたのですね。。

 

 

このなかで、有名な戦いは次の3つです。

 

1.一の谷の戦い。

 

これはめっちゃめちゃ有名ですね。

安全と思われる平氏の陣地がある後ろの断崖から(45度だったらしいですよ)馬で奇襲攻撃した話です。鵯越の逆落としと呼ばれています。

斎藤先生の授業では先生が録画したきちんとしたビデオがみせてくれました。

 

わたしはそのビデオはないので、、ちょっとおちゃらけていますが、こちらをどうぞ。

 

 

⇧のビデオの最後のほうで、熊谷直実が、平敦盛に名前を聞くときに敦盛は名前を言っていますが、

本当のお話では、敦盛は名乗らず、

「汝の(手柄の)ためにはよい敵(かたき)であろうぞ。首を取って人に聞いてみよ。見知っているはずだ。」

 

といったと言われています。このとき敦盛はたった17さい。。

 

きっと、「若いから」と言った理由で助けられたくなかったのと、自分の名まえを言って相手が躊躇することを拒んだのでしょう。

このことがきっかけで、熊谷直実は、自分から後に出家するのですから、どれだけ意味のあることかは、わかります。

 

2.屋島の戦い

 

屋島の戦いといっても、ピンとこない人が多いのでは?(いや、、私がそうだっただけですが、、)

 

那須与一の扇の的といえば、大体の方が思いつくのではないでしょうか?

 

屋島での戦いに疲れ果て、にらみ合っていた両軍でしたが、沖の方から平方の小舟がいっそうこぎよせ、ふねのまん中の棒をたててそこに扇をはさみ、源方に向かって、手まねきする。。という。。

そして、那須与一が見事にその扇の的に弓矢を当て、両軍とも拍手喝采となった。。。という風流な話は知っていますねー。

こうして後世まで語られるようになった話ですが、那須与一にしたら命がけだったに違いないですね。

 

「南無八幡台菩薩、日光の権現、那須の湯泉大明神。願わくはあの扇の真中射させ給え。これを射損ずるならば、弓を折り、自害しなければ申し訳が立ち申さぬ。今一度那須へ帰らせたいと思し召さば、この矢、外させたもうな。」

 

ほれーー

もう失敗したら、死ぬ気だったのですね。。

 

なんとも、、成功してよかったですわ。

 

3.壇ノ浦の戦い

 

これも有名ですね。

有名っていうのもこれが最後の戦いですから。

ここで、平家一族は滅亡するのです。(この時に死ななかった人もとらわれ、斬首され、維盛(清盛の嫡孫)の子供も12歳で斬首され平一門は絶えたのです。

 

今日の余談2

ちょっとここで、私が言いたいことはですね、、、

 

このとき、

「なんで安徳天皇まで道連れにして死ななくてはいけなかったの??」

 

ということとですね、、まあ、これは、平家の血を引いているからしょうがないとしてもですよ、、

 

なんで、三種の神器を道連れにしたのーーーーーーーーーーーーーーーーー??

 

 

ってことなんです。。

 

なんで???

 

なんで??

 

なんで??

 

平家物語の最後は、女性も殿方とともに海に散っていく姿が、美しいのですが、、(美しいというのもなんですが)

 

三種の神器を道連れにしたという時点で、

 

ぶっぶううーーーーーー

 

 

と興覚めなんですよ。

 

「何様だと思ってるのさ????あなた!!」

 

いかにも、自分らが「選ばれた人」と勘違いしていたことがここの場面でわかるんですわ。

 

 

そう思いませんか??

 

 

まあ、そんな平家だったからこそ、たった20年で滅んだのでしょうね。私の勝手な解釈です。

 

 

さて、、、

 

せっかく平家を滅ぼしてやっとこさで帰ってきた義経を、

 

「頼朝は鎌倉に入れないばかりか、会おうともしませんでした。。そして、京都に返してしまい、最後には殺してしまうのです。」

 

 

???

どうしてですか??

 

斎藤先生からヒントがもらえました。。

 

1.一の谷の戦いの後、義経は朝廷から高いくらいをもらったのです。この源氏としての名誉を頼朝に知らせましたが、頼朝はとても怒りました。

2.義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしたのち、京都で貴族の娘と結婚しましたが、これも頼朝は喜びませんでした。

 

どうやら理由は、、、

朝廷から高い位をもらい貴族の娘と結婚する義経を見ると、名前は違っても平家と同じことをしているようですね。義経は戦いには強かったかもしれないけれども、考えは古い考えを持っていて、従来の貴族――平と同じような政治の仕組みで源家を発展させていこうとしていたのかもしれません。

頼朝は、従来の政治の仕組みとは違う、新しい政治(武家政治)をやろうとしていて、朝廷から人気があり、朝廷と良い関係の義経を生かしておいたら、いつか自分がやられてしまい、自分の考える武家政治はできないと考えたのです。

 

今日の最初で最後の質問です。

 

 

どう思いますか???ちっくたっくちっくたっく。。

 

 

授業では、だいたい、Aが少なく、Bが多かったですねー。

 

Bを選んだひとたちは、こぞって、「話くらい聞いてあげたってよかっじゃないーー」

でした。 😀

 

Aを選んだひとたちは、「会ってしまうと情が移るかもしれないし、今までと違うことを成し遂げようとしているときに考えの違う(従来の政治の在り方でやっていこうとする)義経は頼朝の反対勢力に利用されて、自分が倒される可能性は十分あるから、今のうちに断ち切っておいた方がいい」

という意見でした。 😎

 

 

わたしはBを選んで、「話くらい聞いたっていいのではなかったのか?義経はただ、お兄さん(頼朝)を慕っていただけで、あまり政治のことは考えていなかったのではないか??」とおもったのですが、

Aの意見も聞くと、ほ――なるほどな。。と思いました。

 

 

まとめ

「判官びいき」という言葉がありますが、「判官」とは役職の名まえで義経は「九朗判官」とも呼ばれていたことから、義経のような不遇の身の上や、悲劇のヒーロー、弱いものに同情して肩をもったり応援したりすることをいいます。義経のことを思うと、ついついかわいそうだなあと思ってしまうし、兄弟一緒に鎌倉幕府を起こせたら、もっと源家の時代が長く続いたのかもしれないのに。。と思ったりもします。

でも、、源家頼朝のお父さん、義朝も実父と実弟と戦っているし、頼朝は義経を、、頼朝の長男頼家も殺され、次男は長男頼家の息子に殺され、頼家の息子は公卿だったのだけど子供がいなくてこの方も殺されてしまっているのです。

それなので、源家は3代で終わりなんですよ。

でも、、鎌倉幕府を作った源家があっけなく途絶えていたのは、わかるような気もします。武力や政治力はあっても、身内を信頼できずに権力争いをしていたら、崩壊するのは当然ですよね。

 

といっても、新しい、政治形態を作った源頼朝は義経とは別の意味での天才だったのでしょう。

21回では「(天才)源頼朝と鎌倉幕府」についての勉強の報告ですから、楽しみにしていてくださいね。

 

それでは、

これで第20回の歴史教室の報告は終わりですーー!

 

 

Learn Japanの歴史教室は、まだまだ生徒さまを募集しています。

途中参加大歓迎の、4週間無料体験実地中なので、どうぞふるってご参加くださいませ。

申し込みはこちら。

 

あともう一つのお知らせです。

 

4-5才、2-3歳のお子様の日本語教育にご興味はありませんか?

幼児クラスを作るためのモニターを募集しています。モニターをしていただき、感想をお聞かせくださる方を募集しています。幼児クラスで遊んでもらって、アンケートに答えていただける方、お友達と一緒に受けてくださって構いません。お申込みは、↓

 

まで、どうぞよろしくお願いいたします!!

たくさんのご応募をお待ちしています!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です