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武士の登場と平清盛 斎藤先生のオンラインライブ歴史教室第19回

歴史教室

こんにちはー。

授業報告が遅くなりましてごめんなさい。

第19回歴史教室のお話は、武士の登場と平清盛のお話でした!!

いままで、400年近く続いた平安時代も終わりに近づき、武装して戦いを職業にする人たちが出てきたのです。というのも、自然の流れということでしょうね。国家が完成し、中央集権国家ができたとしても、泥棒はどこの時代でもいますよね。ましてや、泥棒してもとがめられることがないのならば、集団化して組織的になってきたりしますし、そのなると、治安を守るためにガードマンの役割をする人が出てくるわけですね。

最初は貴族たちもそういう人たちを雇って自分たちの領土やお屋敷を守ってもらっていたのですが、ガードマンたちがどんどん力をつけてくるのですね。

 

さて、下の絵を見て気が付いたことをあげてみてください。

この絵の題名は、「武士の舘」です。

(画像出所)新編 新しい社会 歴史 東京書籍 P.64 より

 

 

 

お寺、見張り台が見えますね。農民に指図している人、流鏑馬をやっている人、田植えをしている人たち、馬、山、川、橋、お堀も見えますね。

 

ここに描かれている人たちが、武士で、この大きな家が武士の舘なのですね。

 

貴族でも農民でもない人たちの生活ぶりです。馬にのったり、弓をひいたりして戦いの訓練しているのでしょうか?もうすでに周りにお堀があるということは、敵の襲来に備えてなのでしょうかねえ。

自分の身は自分で守る、そして自分が普段お世話になっている方たち(農民)の保護をして自分たちの場所、土地を守るということ、つまり、平和と安全は戦って守るという考えですね。まあ、誰でもできれば戦いたくないですが、何もしないとやられっぱなしになっていつの間にみぐるみはがされてしまっていた、、ということになりかねないですからね。朝から晩まで働きづめで一生懸命耕して育てた作物を盗まれたら、たまりませんものね。。

 

このころの中世ヨーロッパの風景です。

なんだか、雰囲気が似ていますね。

 

中世のヨーロッパについてのウェブサイト

 

さて、、⇧の最初の絵ですが、、前に見た覚えがありませんか??

 

 

弥生時代の環濠部落に似ていますね。

 

違うところは、「国家」があるかないかの違いです。(斎藤先生の授業)

思い出してください。。

 

弥生時代から時間をかけて、いくつもあった集落を統合し天皇を中心とする日本という国家を作りあげられたことは今まで勉強してきました。

天皇を中心として、日本国をまとめましたが、平安京の朝廷が国の安全と平和を守ることはおざなりにしてきたようです。天皇も貴族も団結して国家を統一した時には、いやでも血みどろの争いがあり、根性いれて自分たちの平和や秩序を自分達の責任で守ってきたことを、忘れてしまったのか、、血みどろになって争うのは汚いものだと、戦いをするグループ(?)に押し付けてきたようです。そのグループが力をつけてきたのですね。

これが武士と呼ばれる人たちです。(もののう(物部)、、ともいうそうです。)

武士とは、「主君に仕え、戦いをする人という意味」ですが、もう、この時点で「戦いが強くても頂点には立たないよ。主君のために働くんだよ。」と、、そういう集団が出てきたことがすごいと思うのですよ。

 

どこがすごいか、わかりませんか??(偉そうですみません。。 :mrgreen:

 

よーーーーーーーく、考えてみてください。。

 

よーーーーく、よーーーく、よーーーーーーーーーーーーく。。。

 

はい、、ではいいます。

 

だってーー。普通、自分が強くなったら自分が天下を取りたくなりますよね。(実力なくても)。

誰かのために働いて、その人のいいなりになるなら、その人をとっととたおして自分がぶいぶい人に命令下したり、大きな家に住んだり、美味しいものを食べたりしたくなっちゃうんですよ。

まあ、とにかく、たいていの国の人はそうでした。

(ヨーロッパには騎士という人たちがいて、武士や騎士のように主君のために働く制度を封建制度っていうのですが、、なんと、日本とヨーロッパしか封建制度は発達しなかったらしいですね。中国にも周という国で封建制度らしきものがあったようですが、次第に消滅していったようです。ほかの国にはあるのかな?)

 

ということで、武士というグループが出てきたのはすごいことなのですよ。

 

 

 

こうして、2つの大きな武士グループが力をつけてきたのです。

 

源氏と平氏ですねー

 

源氏は56代清和天皇の子孫、平氏は50代桓武天皇の子孫を名乗ったグループなのです。

(画像出所)新編 新しい社会 歴史 東京書籍 P.67 より

 

さぶらふ者(法然上人絵詞)
貴族はますます、武士の力に頼るしかなくなった。
もののふ(武士、武者)侍(サムライ)

 

(画像出所)授業作りJAPANの日本語好きになる!
歴史全歴史授業 斎藤武夫著 P.106 より

 

⇧の絵は貴族を護衛する武士たちです。

 

貴族は血をけがれとして忌み嫌ったので武士のことを低く見ていたそうですが、地方で武士の反乱や、武士同士の争いが増えてきたので、貴族も武士に頼ることが多くなってきたのです。

主君に使える身の武士。。と先ほど書きましたが、やはり、主君に仕えてお国のために仕えても、交渉が低かったりして不満があって反乱を起こす武士もいたのですね。

939年には藤原純友の乱。

(画像出所)授業作りJAPANの日本語好きになる!
歴史全歴史授業 斎藤武夫著 P.106 より

この人の反乱は最初は海賊を取り締まるために戦っていた人ですが、せっかくの海賊の取り締まりにもよい報奨がもらえなかったから、、とか、自身が海賊になってしまったから、、とかいろいろな説があるそうです。

 

 

そして同じ年に、平将門の乱。

(画像出所)授業作りJAPANの日本語好きになる!
歴史全歴史授業 斎藤武夫著 P.106 より

 

この人の場合、最初は相続争いで叔父を殺害したあとに、いとこの引き渡しを求め、国府を攻撃してしまい、朝敵になってしまったのですね。そこであきらめないのがこの人のすごい所。「なんじゃ、それなら朝廷ってそんなにえらいんかい?」と逆切れしたかはわかりませんが、 😀 「そんなこというなら、わしが天皇になったるわ」といって、自らを「新皇」と名乗ってしなうのです。。ああ。これでは「朝敵」と自分で顔に札をつけたようなものですよね。。

 

 

そして、、じゃん、じゃん、じゃん、

 

平安時代のクライマックス。。。

 

保元の乱がおこります。

Hōgen no ran

ちょっと、保元の乱といっても、、、、覚えていますか??

なんだか、この時代、「----の乱」というのが多くて、何が何だか分からなくなってきます。(わたしだけかもしれないですけどね。 🙄 )

 

保元の乱とは。。。

後白河天皇と、崇徳上皇の権力争いで始まったものですが、もとはといえば、崇徳上皇のお父さんの鳥羽天皇が崇徳天皇を上皇にして、自分の愛するお妾さんの息子を近衛天皇にしたことから始まったのではないかと思います。かわいそうな崇徳天皇、近衛天皇が若死にした後に天皇になったのが、またもや自分の弟で後白河天皇だったのです。。。。。弟が相次ぎ天皇になったことで、上皇といっても名前だけ。。。何の権力もなし。

足蹴にされてムラムラしていたところを、鳥羽天皇が亡くなり後白河天皇と対立し、保元の乱がおきたのです。

その時、後白河天皇についたのが、平清盛と源義朝だったのです。源義朝は父為義、弟為朝が崇徳天皇についたため、父と弟とも戦いました。

結果、後白河天皇方が勝ち、崇徳天皇は壱岐に島流し、為義は斬首、為朝は伊豆に島流しになりました。

ちゃんちゃん。。

という話が保元の乱です。

 

 

 

 

さて、、保元の乱で勝利した後白河天皇がしたことは、各地にたくさんの荘園ができそのせいでたくさんの争いが起きていたのでそれをふせぐために、全国の荘園を天皇の当時かに置くことにする荘園法を整え法改革を進めました。その国政改革を推進したのが、後白河天皇の側近であった信西だったのです。

信西は、もともとは藤原通憲という名前で、学者さんの家系の家に生まれたのですが、幼くして父を亡くし摂関家の高階氏に養子に入ります。裕福な高階家の元で十分な教育を受けた後、亡き父の跡を継ぎ学者さんへの道に進みたかったらしいのですが、その道は絶たれ(高階家の養子にはいったから)出家したといわれています。それで、彼の2人目の妻が後白河天皇の乳母だったことから後白河天皇からの信頼を得ていたのでしょう。

 

その信西が後白河天皇からの信頼を盾に権力を握ってブイブイ言わせながら、二条天皇の即位の時には天皇の側近に自分の子供を嫁がせようとしたりして権力を握っていく姿に反発した、天皇側近や後白河天皇の側近として使える藤原信頼らが「反信西」の勢力を作っていくのです。そして、ここに保元の乱で大活躍にもかかわらず、「平家」のようには重宝されていないと思っていた源義朝は「反信西」勢力とともに働くことになるのです。

 

平治元年、平の清盛が熊野詣に行って留守にしている間にクーデターで信西は殺されてしまいます。

これが、

 

平治の乱です。

 

このクーデターともいえる平治の乱の際には後白河天皇と二条天皇を藤原信頼側にかくまっていたので、こちら対立すれば朝敵になってしまいますので、平清盛は味方のふをして都に入り後白河天皇と、二条天皇を自分の方へかくまった後に、藤原信頼と源義朝を今度は逆に朝敵として追い戦います。一転して朝敵となった藤原信頼と源義朝は平家に敗れ殺されてしまいます。

Heiji Monogatari Emaki - Sanjo scroll part 5 - v2

 

源義朝の嫡男源頼朝は島流し、まだ2歳だった源義経は鞍馬寺に預けられたのです。

(画像出所)
義経鞍馬山之図。鞍馬山での天狗との修行(月岡芳年画)
File:YoshikazuTengu.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E8%A8%98

 

 

そして、

 

「平家であらんずば人にあらず」(ひいーーおごりまくり。。。)

 

という言葉通りの「平家一族」の全盛期を迎えるのですねええーー。

 

でも、、、

 

平家の天下黄金の時代もそんなに長く続かなかったのです。。。

 

 

それは、、

 

 

平安貴族は日本の伝統や天皇制を守り、日本文化を発展させたのですが、
その代わり、

国策で「国の治安」を守るということを怠ったために、
国の秩序と治安が乱れ悪化させてしまいました。

貴族が「戦うこと」野蛮なもの、「血」のにおいのすることはけがらわしいと、代わりのものに「秩序と治安」を守らせたことが、武士が出てきた始まりでした、、ということは上記⇧で書きました。そして、そのような武士の出のはずだった、「平清盛」が、貴族と同じようなことを始めたのです。しかも、自分の権力と武力を利用して、自分の身内を朝廷の高い位置につけて先ほどの言葉「平家でなければ人にあらずんば」というようにおごりたかぶり、だれもが平家に逆らうことができなくなってしまい、かつての貴族と同じように天皇と自分の娘を結婚させ、(藤原氏と同じやり方)権力をにぎり政治を牛耳じったからです。

 

これでは、、だれも平氏についていこうとは思いませんよね。。

ということで、、藤原氏のような政治の仕方しかできなかった平清盛は、こういったことで、この人の才能や政治手腕の限界があったのかもしれません。

 

noriko
noriko

まとめと私の勝手な感想

平治の乱はたしかに、源氏と平氏が戦って平氏が勝ったのですが、
戦いで勝ったというよりも、知力で勝ったのではないかなーと思うのです。

そして、、源氏と平氏の戦いというよりも、藤原信頼側についた源義朝がばかをみた。。というか。。

実は、源義朝は藤原信頼とともに、信西を攻撃して殺した時に、平氏をこのまま攻撃して討とうと藤原信頼に進言しているのです。このときに攻撃していれば、勝てたはずなんですよ。

それなのに、藤原信頼は自分の息子を平清盛の娘と結婚させていたということもあり、平清盛は自分の見方だと信じ込んでいたのですね。(清盛も信頼の息子を護衛付きで親書を持たせて返していることもありますが。)

 

ここで、タヌキおやじ平清盛(よい言い方で言えば、策略家で頭のいい)に油断させられて、後白河天皇と二条天皇に清盛側に取られてしまうのですよ。将棋の駒のように。。

 

ばかな大将につくと勝てる戦も負けてしまうという典型的な例で、ここで朝敵になったのが敗北の原因だと思うのです。

 

源義朝は、不本意ながら朝敵となってしまい、平清盛率いる朝廷の軍とたたかうことになるのです。挙句の果てには落ち延びて最後には、かくまってくれていたはずの長田忠致親子に裏切られて自害したとも、お風呂に入っている最中に殺されたともいわれています。

 

義朝は、落ち延びて逃げるときに、一度も自分自身では戦わず、怖気づいて敵前逃走してにげた信頼に「僕も一緒につれていってくれーー」と言われ、

 

「このあほおおーーーーーーーー(何をいまさらたわけたこと言いやがる)ーーーーーーーーーー」

 

といって、(本当かどうかは知りませんが)平手打ちをしたと伝えられています。

 

そしてですね、、、ここまで策略家の平清盛が、義母に頼まれたくらいで頼朝と義経、他の兄弟を助けたのも、、不思議だなあとおもっていたんですけどね、

 

「源頼朝や義経が生きていなくても、いずれおごり高ぶった平氏は滅んでいく運命だった。。」

 

というふうに考えることもできるなと思いました。

 

そしてですね、

 

「おごり高ぶっていたからこそ頼朝や義経を生かした。」

 

とも考えられるなあーとおもったんですわ。
(ちょっと難しい。。)

義経の母の常盤御前は妾にしてしまいますし、、。(現代に生きている私にとっては、こういう男は気に入らん。たとえ、こういう話は昔はごろごろしていて普通のことだったといわれても。) 😡

 

平家物語 (冒頭部分)

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。

奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。

たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にも従はず、楽みをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざっしかば、久しからずして、亡じにし者ども也。

近く本朝をうかがふに、承平の将門・天慶の純友・康和の義親・平治の信頼、此等は奢れる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、伝えうけ給はるこそ、心も詞も及ばれね。

 

 

 

 

平家物語の冒頭、、いいですね。(朗読 平家物語・第一句~第五句版は最後にのせました。)

 

 

それでは、ながーーい第19回の歴史教室ご報告になりましたが、第20回歴史教室のご報告も楽しみにしていてくださいね!!!

 

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